渡部昇一と西村眞悟の1996年の歓談

渡部昇一の新世紀歓談と思われる動画から文字起こしです。対談が行われたのは1996年7月でしょうか。

※文字起こしは不正確であることがあります。


渡部昇一 渡部昇一の新世紀歓談の時間でございます。この番組は、国益という立場からいろんな問題について歯に衣を着せずに切り込もうという、そういう趣旨の番組でございます。今朝のお客様は西村眞悟先生です。あの「さん」と呼ばせていただきますが。

西村眞悟 はい、どうかよろしくお願いします。

渡部昇一 西村さんはですね、「亡国か再生か」という、こういう御本をお書きになったのです。政治家の本というのはですね、立派なのもありますけども、そうでないのもあります。ところがですね、この本はね、別格でございましてね、私の赤線の引き具合を見てください。ざーっと赤線ですよ。ほら。というような非常に刺激的な、よく考え抜かれた考察に富んでおりまして、ほとほと感銘いたしました。

西村眞悟 いやー、ありがとうございます。

渡部昇一 ところがですね、この本にも著者紹介のとこで書いてあるんですが、西村さんは随分ゆっくり大学に行っておられたようですね。

西村眞悟 はい。無駄をせずに生きるタイプではなかったわけですから・・。

渡部昇一 裏表八年というのはやっぱり今の制度では極限ですもんね。

西村眞悟 そうです。初めの四年間は大学紛争でですね、あまりその大学には行かなくて。例えば京都の大文字山にですね、二年間で600回くらい登ってると。ほとんど毎日登ってたわけです。そういう風な寮生活をしておりまして。

渡部昇一 それから弁護士試験もまたゆっくり受けておられるんですね(笑)

西村眞悟 八回生のなる前の頃からですね。やはり本代くらいは自分で稼がないかんと思いまして、いまさら官僚になるわけでもないと。同級生が四年先輩におりますから。それで司法試験を受けようと思ったらですね、初めの三ヶ月くらいで短答式というのは通ってしまったんですね。論文式はですね、まぁこんなものかと思って、受けたらですね、通らなかった。来年は短答式はすぐ通るだろうと、論文式もすぐ通るだろうと思ったんですけども、今度は短答式というものが通らなくなりまして。門前払いの連続でですね。

渡部昇一 はぁ~。六回とか?

西村眞悟 六回くらい。

渡部昇一 こういうのをお聞きになるとですね、見ていらっしゃる聴視者の方でもね、お子さん持っていらっしゃる方いっぱいいらっしゃるはずですが、安心なさると思うんですね(笑)。

西村眞悟 そうですね。

渡部昇一 ゆっくり進まれてもね、本当に考え抜かれて、僕が今読んだ先生の著書はですね、政治家のものとしては最高のものだったと思うんです。だからよく考えるタイプでいらっしゃるなと。つくづく感心したわけなんです。

西村眞悟 そうですか。

渡部昇一 そこで政治家としてですね、一番日本人として、どこの国でも同じことですが、政治家の最大の関心は、その国の基本法にありますね。で、日本国の憲法をですね、この成り立ちに関してもね、いろんな議論が成されております。今の衆議院議長も憲法専門家だということを言われていますが、外国の方にもそう書いてありますが、憲法9条以外は知らないんじゃないかなというような印象さえ受けていますが、西村さんはですね、占領下、敗戦後ちょっとすると憲法が◯◯(聞き取れず)となったわけですけれども、日本国がもう一度、その平和条約を結んで、独立する前の数年間は、それは大日本帝国憲法から日本国憲法という名前には変わったけれども、実質上はGHQ、アメリカの占領軍の支配下にあったので、日本管理基本法であったと。こういう見方をしておられるんですね。それであの期間は一番、理想化するような人もいないわけではないんですが、例えばあの期間日本がね、数年間にわたって、憲法が何も、何もと言っちゃ悪いんですが、憲法が作動してなかったという例はあるんですね。

西村眞悟 はい。つまりですね。昭和20年9月2日に降伏文書に調印してからですね、22年5月3日までは、大日本帝国憲法はですね、GHQの日本管理基本法として、変容を受けながら適用されている時期ですね。で、昭和22年5月3日以降、27年の4月28日の独立まではですね、日本国憲法は管理基本法として引き継がれているわけです。で、従って、22年5月3日の現憲法施行から、この日本が人権の尊重する、そして民主主義の国になったのだと学校で教えられてる通りに思っていれば、大きな間違えでですね。

渡部昇一 そうなんですね。一番基本的なことが、嘘を教えられているわけなんですね。

西村眞悟 そうです。従って、もしそういう人がおれば、学校で教えられた通り、昭和22年5月3日から日本国憲法のもとで民主主義の国家になったのだと、人権を尊重する国家になったのだという人がおりましたならば、その人はなぜGHQは憲法制定手続きを含む30項目の検閲をすることが可能であったのかと。

渡部昇一 憲法以上のものがあったわけですね。

西村眞悟 そうですね。GHQは憲法を超えた権力として君臨していたわけです。したがってGHQはそのポツダム宣言で、日本国政府の形態は日本国民が自由に表明するものによるという条項がありました。つまり彼らの言い方ではですね、占領解除後、勝手に決めてくれということだったわけですね。しかし我が国は27年の4月27日以降、勝手に決める、つまり自由に決めなさいと表明されたポツダム宣言を受諾したにもかかわらず、なんら自由に表明することに目をつぶりながら、現代まで移ってしまったと。

渡部昇一 そもそもですね、勝ったほうがですね、負けた国に憲法を作ってね、翻訳してやれなんていうこと自体は国際法違反なんですね、あれは。

西村眞悟 そうです。ハーグ陸戦条約で占領中に、その被占領国の基本法を変えてはならんということがありますから。

渡部昇一 変えたんですよね?

西村眞悟 変えたんです。文明に対する罪です。

渡部昇一 文明に対する犯罪ですね。それが、なぜですね、護憲派という人たちはね、文明に対する明白なる犯罪を支持するのか、おかしいもんですね。

西村眞悟 そうですね。

渡部昇一 ここに先生がね、挙げてある例ではですね、例えば新憲法発布以後でもですね、公職追放令があったんですね。日本人の公職を追放させたわけですね。それから1千名を超える人を死刑に処してるんですね。

西村眞悟 そうです。戦犯としてですね。正式な裁判を遂げずに死刑にする。

渡部昇一 そして、もっとおかしいことは新憲法がどうしたかを批判することは一切許されなかった。

西村眞悟 そうです。GHQのですね、検閲事項の第一はですね、「憲法制定過程にGHQが関与したことに対する報道を禁止」と呼ばれる。

渡部昇一 そうなんですね。

西村眞悟 その次はGHQに対する批判。連合国に対する批判。もっとひどいのがですね、連合国軍人と日本人女性との交際についての報道は禁止すると。30項目ですから。

渡部昇一 それから、朝鮮についての批判も一切許さない。

西村眞悟 そうなんです。

渡部昇一 あのあたりで嘘が確立していくんですね。どんどんどんどんね。

西村眞悟 そうですね。

渡部昇一 数年間ね、一切批判を許されない言論が横行したらね、あとその言論に乗って、社会的な地位に就いた人は、守りますからね。

西村眞悟 マックス・ウェーバーに「職業としての政治」という本が、岩波から出て、薄い本ですけどね。いつも私、鞄に入れて持ってるんですが、その中に「敗者は勝者に媚びることによって、有利なる地位を得ようとする」と。

渡部昇一 なるほどね。

西村眞悟 こういうことが書いてあるわけです。したがって戦争を倫理的にですね、批判・断罪してはならないと。マックス・ウェーバーは1919年にリヨンの学生にそれを語っているわけですけれど。それと同じ状態が、マックス・ウェーバーの警告通りに日本に生じていたということですね。

↓続きは動画でごらんください。

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